車に戻ってから200m先の「大姥坐像」「弥勒仏塔」を見に出かける。看板には、こう書かれてあった・・・
奈良尾の石造多重塔(弥勒仏塔)
この塔は、昭和二十八年に六層、七層、露盤、相輪が復元され、現在の七重の塔となった。塩田陸奥守が弘安四年の蒙古襲来のとき、奈良尾の常光寺の住職に命じて、戦勝祈願をさせたところ、蒙古軍が退散したので、供養のため、この塔を建立したものと伝えている。高さは、二メートル余、台石に「弘安八年乙酉三月八日」と陰刻してあるので、この年に建立したものであろう。また、初層の方柱には一面に一字ずつ配して「弥勒仏塔」の四字が刻まれている。塩田における石造多重塔婆で刻文と年号があるのは、この塔だけであり、かつ最も古く重要な史料となる貴重な塔婆である。
石造大姥坐像
像高三七糎、安山岩の一石彫りだが、背面は自然石の形を利用している。製作の動機や由来は不明で、脱衣婆と想定してもマッチする十王像が見当たらない。地元では”大姥様”とか”大姥仏”と呼んでいる。背面の陰刻銘で、室町時代中期の寛正七年(1466)五月の作であることがわかる。但し、この年は二月に改元され、文正元年となっている。こういう例は安楽寺の樵谷・幼牛両和尚の頂相(ちんそう) の場合にもある。寛正の在銘の彫像は上田小県地方では他になく、彫刻史上貴重な資料である。
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