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富士嶽山1034m
今年の2月に何とかして登ろうと試みたが、雪が多くて安易な気持ちで登れそうになかったので、あっさり撤退を決め込んだ山だった。今日の天気は曇りで梅雨真っ最中だ。これから天候が回復するらしいが、それも2日前の情報である。

松茸を食べさせてくれる「見晴台」の看板を目安に車を走らせる。ここの周辺は松茸が採れることで有名だが、料金も驚くようなシステムだ。

建物が邪魔して景色は良くないが見晴台を通り過ぎると富士嶽山の登山口がある。


登山口からしばらく登ると坐像が奉られた祠がある。岩が混じった尾根で、とても快適である。
突然リスが横切った。カメラを準備してリスを撮影しようと頑張ってみるが、リスの逃げ足は速かった。しばらく耳を澄ませて動物の足音が聞こえないかと周囲を観察していると、150mほど先の森の中でニホンシカが動いている。カモシカだったら理解できるが、こんな場所にニホンシカが生息してるとは知らなかった。

次第に傾斜が増してトラロープが現れた。泥と落ち葉で滑りやすくなった登山道は、落石・転落防止?のネットもあって、なかなかヒヤヒヤする。滑落しないように慎重に行動する。

  山頂直下は藪漕ぎとなったが、何とか頂上に到着した。三角点は隣のピークにあるらしいが、登山者ノートに書き込んである内容を読んでみると、ここも山頂のように扱っている。草に覆われたベンチに座って久しぶりにインスタントラーメンを作っることにした。  

  山頂にアヤメが咲いていた。数年前に整地して富士嶽神社を建て替えたと情報を得ていたが、現在ではワラビやアヤメなどが生い茂り、狭い山頂になっている。  

車に戻ってから200m先の「大姥坐像」「弥勒仏塔」を見に出かける。看板には、こう書かれてあった・・・

奈良尾の石造多重塔(弥勒仏塔)
この塔は、昭和二十八年に六層、七層、露盤、相輪が復元され、現在の七重の塔となった。塩田陸奥守が弘安四年の蒙古襲来のとき、奈良尾の常光寺の住職に命じて、戦勝祈願をさせたところ、蒙古軍が退散したので、供養のため、この塔を建立したものと伝えている。高さは、二メートル余、台石に「弘安八年乙酉三月八日」と陰刻してあるので、この年に建立したものであろう。また、初層の方柱には一面に一字ずつ配して「弥勒仏塔」の四字が刻まれている。塩田における石造多重塔婆で刻文と年号があるのは、この塔だけであり、かつ最も古く重要な史料となる貴重な塔婆である。

石造大姥坐像
像高三七糎、安山岩の一石彫りだが、背面は自然石の形を利用している。製作の動機や由来は不明で、脱衣婆と想定してもマッチする十王像が見当たらない。地元では”大姥様”とか”大姥仏”と呼んでいる。背面の陰刻銘で、室町時代中期の寛正七年(1466)五月の作であることがわかる。但し、この年は二月に改元され、文正元年となっている。こういう例は安楽寺の樵谷・幼牛両和尚の頂相(ちんそう) の場合にもある。寛正の在銘の彫像は上田小県地方では他になく、彫刻史上貴重な資料である。


林道(9:33)〜山頂(10:36)〜林道(11:59)

2003年6月15日



「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平15総使、第244号)」


登山をされる方へ

日帰りで帰ってこれる山登りが中心となっています。
山に登られる方は地元の警察や登山地図を参考に登山計画を立ててください。なお、このサイトはあくまで私が見た現地の様子なので、参考程度に御覧下さい。