花川原峠から虚空蔵山へ行くつもりだったが、登山道が無いので唐鳥屋城跡に登ることする。
立峠の分岐に戻り、立峠石畳の途中まで車で進んでみたが、途中で動けなくなりそうだったので、立峠を諦め、再び花川原峠に戻って獣道を歩き始めた。
将軍の代替わりの度ごとに巡見使がやってくるが、その応対が大変であった。天明八年の記録(乱橋村吉重の控)に次のような記述がある。
「会田御止宿、桑原御宿まで内、坂北組十二か村名主会田御止宿までの罷出候う事。坂北十二組か村命主組頭百姓代などの立峠峯まで未明より出張道橋普請の儀は会所西城弥四郎方に相立ち、麻績、坂北組相談にて和談の上乱橋村より立峠峯まで、乱橋、西城、東条、大沢新田四か村にて作り申し候う。」
このように、本城村全部で立峠の普請をしなければならなかったわけで、石畳にしたらどうかという意見が出るのも無理はなかった。
立峠石畳 本城村教育委員会より引用 |