ちょっと遅刻したせいか峠の駐車場は満杯状態で、邪魔にならないように路上駐車する。
関田峠は昔から物資の往来が盛んだったようで、信州にも石油や海産物が流れ込んできたようだ。
「1799年北国街道宿場役人と関田猿供養寺間で約された峠の抜荷中止の措置は、峠の往来を不可能にした。石油が発見され其の販路について、峠の再開が識者の間で考えられた。藤巻勘之丞は、別所川手の代表庄屋で、峠の再開による地域経済の発展に強い意欲を持ち、関田近郊、信州温井、高井へ何度も歩を運び改修実施に漕ぎ付け自ら勧誘し、金83両を集め人夫延べ1300人余の寄進を得、関田温井両村を施工主とし、1847年起工、同50年3ヶ年を要して完工するに至った。以来、峠を越えて食塩、塩魚、海産物、米穀、石油、酒は信州へ、紙織物、大豆、諸雑貨等、越後へと流れ出した。此等の品物を運搬する為、直江津春日新田或いは、稲田から田井、関根、宮嶋等を経路して、「牛追」「馬子」と称される人々が働く場を得、針が物資の集散地となった。藤巻勘之丞は、此の事業の記念碑を建立を考えていた。其の頃、高田藩の招請で昌平学講官佐藤一斉先生が来高していた。榊原藩主、勘之丞の願いを入れ一斉先生に改修碑文の以来を口添えされたと伝えられる。此の改修が県道飯山線の基礎となり光ヶ原開発の礎となった事を思えば、勘之丞と関田村に対して深い感動を禁じ得ない。佐藤一斉の碑文の原本は、一斉に随行した大橋訥俺の書画と共に町文化財として、別所部落に保存されている。」
碑文原本はより抜粋 坂倉町観光協会 |