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妻女山410m
薬師山へ行く途中に妻女山展望台の標識があり、きっと見晴らしが良い場所だろうと登ってみると歴史的にも重要な場所だっと認識した。

川中島といえば、川中島古戦場で上杉謙信と武田信玄が戦ったぐらいしか知らず、ネットで調べてみると興味深いことが分かった。


妻女山招魂社には誰も居ないと思っていたが、やはり有名な場所なので観光客らしい人達がチラホラやってくる。

展望台には、このような説明書きが書いてあった。

「永禄4年(1561)のこの合戦は、武田信玄と上杉謙信が一挙に勝敗を決すべく、両軍合わせて3万3千もの軍勢が激突した凄まじい戦いである。
信玄が4月、信守護の名のもとに信濃に進出し、割ヶ嶽城を落としたのがこの大合戦の起因である。
上杉軍は8月16日に海津城の向の妻女山に1万3千の陣を置き、武田軍は茶臼山から8月29日に海津城へ入り兵力を2万とした、武田軍は山本勘助の案により軍を二隊に分け、一隊が夜陰にまぎれて妻女山に進み奇襲攻撃を掛け、上杉軍が山を下るのを残る一隊が待ち受けて八幡原で撃つ「きつつき戦法」を実行したが、上杉軍はそれを見破って、9月9日の夜密かに山を下って雨宮から千曲川を渡った。
9月10日川中島は霧の深い朝だった。上杉軍の予期せぬ攻撃と「車がかりの戦法」によって武田軍はゆるみ、大混戦となり、「鶴翼の陣」を敷いて応戦したが、大苦戦を強いられてしまった、しかし、妻女山に向かった別働隊の到着によって攻守は逆転し、上杉軍は善光寺へと敗走したのである。そんな中で両雄一騎打ちが戦いのハイライト。萌黄の胴肩衣をつけ、頭を白い布で包んだ騎馬武者の謙信が、間髪を入れず信玄めがけて三度斬りつけた。信玄は持っていた軍配団扇でとっさに受け止めたが、後で見てみると刀傷が7ヶ所もあったという。
この合戦は信玄の弟典厩信繁をはじめとして6,000余名が戦死した大激戦であったが、結局勝敗はつかなかった。」


2004年4月4日

「この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の数値地図50000(地図画像)及び数値地図50mメッシュ(標高)を使用したものである。(承認番号 平15総使、第244号)」


登山をされる方へ

日帰りで帰ってこれる山登りが中心となっています。
山に登られる方は地元の警察や登山地図を参考に登山計画を立ててください。なお、このサイトはあくまで私が見た現地の様子なので、参考程度に御覧下さい。